8冊目:モンテッソーリ教育思想の誕生

(1)近代化の中で翻弄される子供を前に

 最初に、モンテッソーリの教育思想が19世紀後半から20世紀前半におけるどのような社会背景の中で生み出されたものであったかを考える。この時期に生じていた子どもと教育に関する諸問題に対してモンテッソーリがどのように捉えて、新しい教育を目指したかを見ていく。

1.識字の時代と子供の格差

先進的なイメージのするヨーロッパも19世紀における識字率はかなり低く、1850年頃、ヨーロッパ諸国の45%〜50%の人々が読むことができなかった。イタリアはヨーロッパ(ロシアを除く)でアルバニアに次いで非識字率が高く、国家統一直後の1861年における非識字率の全国平均は78% (女性84%、男性72%)と4分の3以上の人が読み書きできない状態であった。ヨーロッパ諸国のほとんどが19世紀後半に教会と国家との対立や階級的対立が渦巻く中で、普通教育を制度化したように、イタリアでも国家統一以後、普通教育制度が成立した。日本における明治維新の数年前のことである。その後、非識字率は1871年に73%、1881年には67%と少しずつ減少したものの、1901年において56%と20世紀初頭の時点でまだ半数以上の人々が読み書きできなかった(1911年47%)。
 モンテッソーリが教育思想の土台を形成するのは、普通教育制度が施行されて十数年を経て、社会が大きく変化していく時代であった。産業化や科学革命の進行により、人々は家業だけではなく、多様な職業機会を得ることになり、親から子への職業継承の系譜が崩壊していく。生産の機能を持たず消費の機能だけになった家庭では、労働の技術と生活の知恵を親や地域の人々と労働し生活する中で経験と口頭伝達という手段を通して教え学ぶという従来の教育のあり方は失われる。一方、学校教育で得た内容が生活の糧を得るための土台になったり、従来の職業の発展や新しい職業可能性を開いたり、経済的社会的地位向上のための手段となる時代へと移行しつつあった。このようにこの時期は、共同体や家族が行っていた職業教育が学校教育で徐々に移行する時期であり、それは、言いかえれば、知的教育の機会の度合いによって、個人の経済的社会的地位を左右される時代が到来したということである。まさにこの時期に普通教育が制度化され、修学率が徐々に上昇し、読み書きができる人々が増えていく。
 しかし、教育制度の成立がこれまでの際を温存ないしは拡大する、あるいは、新な差異を生み出す要因になるという現象も生じていた。統一国家によって施行されたカザーティ方という教育法は、理念的には近代教育の基本的原則のうち、無償と義務に加え、男女の就学の機会均等をヨーロッパ諸国の教育法の中で最も早い段階で打ち出していたが、実際には、学校の設置など教育にかかわる諸経費の負担を国家ではなく市町村に委ねたため、財政力のない地域では、小学校初級課程の設置もできないことがしばしば起きた。さらに、2年間の上級小学校の設置義務は人口4,000人以上の市町村に限定されたので、その設置はより難しかった。つまり、貧しい地域や人口の少ない地域では多くの子供たちが教育を受ける機会を得られなかったし、得られたとしてもそれを継続する機会は少なかった。
 また、小学校設置の不平等は、法や制度によってもたらされただけではなく、上層階層が民主教育を否定的に捉えていたことにもよっていた。彼らは民衆学校の設立や運営のために自分たちの出費が増大するのを嫌がったし、民衆が教育を受けて知的に向上すると、反抗的になり、従順に働かなくなると怖れ、小学校設置に積極的ではなかったのである。
 このような理由からも小学校設置は順調には行われず、イタリアは長く教育における地域格差に苦しむことになる。例えば、非識字率の地域格差は1871年に41ポイント(ロンバルディア地方45%、サルデーニャ地方86%)であったが、全体的に識字率が少しずつ上昇した1901年には、そのさは49ポイントにむしろ拡大している(ロンバルディア地方22%シチリア地方71%)。また、都市部と周辺部の地域格差も長い間残された。
 また、教育の機会は女子にとっても不利なものであった。長い間、女性は教育、特に知育を受ける対象ではないと考えられており、女性の識字率は非常に低かったが、国家統一以前は男子の識字率も低いレベルにあったために男女格差は小さかった。しかし、近代的教育制度は女子教育に関する予算や学校数を男子よりも常に低く抑えたために、男女の格差が拡大するという現象が生じることになった。
 このように平等な教育制度は当時の人々の教育観を反映したものでもあった。逆に、制度によって人々の意識が左右されていく面もあるのだが、いずれにせよ、女子が就学すると男性に対して反抗したり、献身的に尽くさなくなるという懸念や女子の知的技術能力の向上が男性の就職機会を奪うという怖れもあり、女子の知的教育の推進は阻まれた。
 以上のように、イタリア南部の子どもや都市以外の田舎に住む子供、そして女子は学校で教える知の世界から排除される割合が高かった。
 さらに、都市に住んでいても就学できない多くの子供の存在があった。この時期に増加した工場などで働く子供や捨て子などである。産業化により、商品の大量生産が可能になり、物質的生活は向上する兆しを見せたが、その影には子供の工場労働の増加、就学機会の喪失、それによる非識字率と貧困、栄養不良さらには病気や早死にといった様々な問題が生じていたのである。
 当時の新聞が年の下層階級の子供を「悲惨と搾取と抑圧に沈んでいる」と評したように、この階層の子供は産業化の進行の陰でその歪みをまともに受けていた。この時、教育を受け、読み書きを学び、専門的な知識を増やす事は、その悪循環を断ち切る武器になるはずだったが、これらの子供たちは学校制度から排除されることが多かったのである。当時、硫黄鉱山や硫酸にブリキを浸ける工場など危険な場所や繊維工場など健康を害する場所でも、子供が長時間労働しており、それが各種新聞等でも大きな社会問題として指摘されるようになっていた。モンテッソーリはこの時期における下層の子供の状況改善を、国際会議や婦人会議で訴えている(1899年6月)。
 19世紀は、児童労働とともに捨て子の世紀でもあった。捨子の数が19世紀半ばには18世紀初期の数倍に激増し、その後各種の政策によって徐々に抑圧されていったものの20世紀初頭においてもまだかなり高い数字を示していた。捨子の急増の原因には、人口の増加、近代型の貧困や産業化による農業労働力としての子供の価値の低下、女性の就労形態の変化など、19世紀前半から顕著になってきた社会的経済的諸変化が基礎にある。さらに母乳育児にこだわらず養育者を限定しないという習慣に加え、家族のより良い生活を目指すために家族計画の一環として子捨てを合理化しようとする心性の変化などもあったと考えられる。また、捨て子養育院等施設の整備による子供に対する処遇の改善(市民層の子供への関心の高まり)など、捨て子の急増はこれらの心性の変化が社会的経済的要因に折り重なって生じたと考えられる。
 養育院での待遇が改善されたとはいえ、捨て子の多くは十分な教育を受けられる事は少なかった。1年間に10万人を数えたと言われる捨て子は家族からその存在を受け入れられず、学校教育からはじき出され、過酷な児童労働によって搾取され、知の世界と出会う事は少なかった。
 このように見てくると、モンテッソーリが教育思想を形成する19世紀末から20世紀初頭にかけての時期は、近代的な知的教育が普及する一方で、教育を受ける側の格差が明確になった時代であった。その問題を問題として社会が徐々に認識し始めていた時代でもあった。

に学校教育の実態一方、就職機会を得られた子供にとっても、豊かな乳が保障されていたとは決して言えなかった。当時の小学校で教えられた内容は男女とも極めて限られており、また、男女で教える内容が差別化されていた。イタリア語の読み書きと計算それに宗教が基本であり、それに加えて、男子には「市民の義務」が教えられた。男子時半学校では、後国家主義を反映した軍事教練が加わっていたので、それを学んだ教師によって小学校で国家主義的規範も伝えられた。女子には「女性の仕事」と言う項目があり、縫い物、編み物、そして家庭における教育者としての役割が与えられた。19世紀後半から「家庭における教育者」としての母親と言う規範が広がり、さらに、それは19世紀末には賢母(さぎ山ドル)と言う概念に強められていた。この規範が、これも19世紀後半から増え続けた小学校の女性教師によって女子に伝えられていた。女性教師が増加したのは、小学校教育を普及させるために安かっに雇える存在としてその要請を行政が進行したためである。また、女性にとっても教師は低いが安定した休養を確保できる数少ない職業として魅力があった。女子模範学校での教育内容も、読み書き算数と宗教、それに裁縫始めとする衣類の管理と家庭における教育者としての母親役割に限定され、そこで学んだ女性教師たちが子供たちに伝えたことも限られた内容にとどまった。学校の教育方法にも問題があった。19世紀末には、「科学的教育学」の名のもとで子供の動きを精製するための学習机が発明された。子供の手足の長さなどを測定し、体型に合わせたいと足代と机が組み合わされた学習机が作られたのである。大家体型に合わせたといっても、座りやすい椅子を作るためではなく、子供の自由な動きを止めることが目的であり、子供はそれに座ると授業中絶対に立ち上がれなかった。また、当時の教育現場では、正月と言う外からの圧力によって理不尽や虚栄心を刺激して、子供の学習に駆り立てると言う方法もしばしばとられていた。このような教育のあり方では、逆に内なる知的好奇心は抑制された。モンテッソーリは身動きができないようにした学習机や正月など外的な力によって子供の活動を押さえつける教育を批判した。それだけではなく、イタリアにおける子供と教育の諸問題、すなわち、品日敷地、児童労働、学校教育の条件や教育内容等の問題に加え、貧しい子供の学校での振り等を問題視し、そこからすべての子供を視野に入れた改革をする必要性を認識した。近代社会の到来に伴って生じた問題状況の中でそれを批判しかつ克服するために、そして「人類の再生のために」新しい教育を目指そうとした。それは子供の生命力を援助し発展させながら知性を伸ばそうとするものであった。その基本には、彼女が創設した「子どもの家」(1907年)に通う用事が喜びを持って知的作業に集中する姿を発見したことがあるのだが、社会的背景としては、以上のようなイタリアにおける教育の問題が存在していたのである。

  • 註 (1)
    • 女性の非識字者の対男性比(対100)は1871年においては121であったのに、就学率が上昇した1901年には130と格差が拡大した。
  • 註(2) 参考文献
    • 「イタリア統一以降の学校」1990.
    • 「国境で」1998.
    • 『読み書きの社会史』佐田玄治訳、御茶の水書房、1983年
    • 「女性の教育」1989.
    • 「イタリア統一後の子ども史」1988.
    • 「ミラノの捨て子」1989.

(2)障害児教育から方法の基礎を得て

ローマ大学の医学部を卒業したマリア・モンテッソーリは、約10年後の1907年、「子どもの家」で華々しい教育実践を展開する。それまでの間、彼女は医学、精神医学、生理学、人類学、教育学、女性解放思想や社会主義思想など様々な学問や思想に影響を受け、独自の思想を形成していた。ここでは、モンテッソーリが最初に影響受けたイタール(1774-1838)とセガン(1812-1880)の障害児治療教育との関連でモンテッソーリの思想と方法の基礎を考えてみたい。

1.知的障害児治療教育との出会い

19世紀後半のイタリアではまだ教育制度が十分に整っておらず、性別や地域によって教育を受ける機会はかなり制限されていたが、その中で、女性にも教育の機会が少しずつ開かれようとしていた。このような流れの中で、モンテッソーリは先駆的な役割を果たしていた。女子に中学校への入学が初めて認められた1883年に、彼女は工科中学校に入学し、さらに、工科高等学校にも進んだ。1890年にはローマ大学に入学し、その上、まだ女性には入学が許可されていなかった医学部へ様々な難局を乗り越えて進学し、ローマ大学で女性として最初に医学の学位を取得したのである。それ以前にイタリアで医学を学んだ女性にはエルネスティーナ・パペル(1872年ピサ大学)、アンナ・クリショフ(1885年ナポリ大学)、ジュゼッピーナ・カッターニ(1890年頃トリノ大学)などほんのわずかな例があるだけである。
 モンテッソーリは、医学部在学中から婦人科病院、小児病院、神経クリニックなどで助手を務めるなどして臨床的な経験を重ねた。また、精神病院にも通い、治療の対象になる患者を選ぶ仕事も行っていた。当時、西欧諸国では知的障害児のための養護施設が設置されている国もあったが、イタリアではまだ、障害児は精神病院に入院されてさせられていることが多く、モンテッソーリは病院での知的障害児の様子を知ることになる。そこでは子供たちが遊び道具もない殺風景な部屋に閉じ込められて1日を過ごしていた。発達を促したり、知的好奇心を呼び起こすような刺激はほとんど与えられていなかった。子供たちの状況に触発されたモンテッソーリは障害児に対する関心を深め研究を進めていった。その中で、イタールやセガンの治療教育に関する思想と実践に出会い大きな影響を受けることになる。
 障害児に対する関心を深めたモンテッソーリは、1897年にトリノで開かれた全国医学会議1898年観光の政治評論誌『ローマ』誌上、同年9月トリノでの全国教育会議などで「知的障害者に対する適切な処置」や教育の持つ力の重要性を指摘した。
 特に教育会議では「医学と教育学を結びつけていく発想」を提起するとともに、精神科医学者ボンフィーリ教授による障害児教育関連法の制定案を受けてモンテッソーリはいくつかの具体的な提案を行っている。公立小学校における障害児学級の開設、専門的教師による障害児の個別教育、重度障害児のための治療教育の特殊学校設置、各地の師範学校における障害児教育の教授、大学に特別過程を設けての治療教育師範学校教師養成などである。
 また、モンテッソーリは1898年よりローマの特殊教育師範学校の責任者として知的障害児への教育実践と特殊教育の教師養成を行った。その際、イタールとセガンに関する研究をさらに深め、セガンの『知的障害児の精神治療、衛生法並びに教育』や『知的障害児ー生理学的方法による治療教育』を訳出し、イタールやセガンの感覚教具を実際に試した。「10年間における私の仕事は、イタールとセガンの40年間に及ぶ研究の集大成である」とモンテッソーリ自身も述べているように、モンテッソーリはイタールとセガン研究に基づいて教育思想と方法の基礎を築いた。
 また、モンテッソーリは障害児治療教育研究に基づき、『教育学的人類学』(1910)の中で次のように述べている。「学校や教育学で求められる改革は、社会生活という環境に不適応を示す子供を含む、発達過程にあるあらゆる子供の保護を導くものなのである」。
 モンテッソーリはこのように述べて、健常な子供だけではなく様々な異常や逸脱を示す子供を含む全ての子供を視野に入れた教育の改革を提案した。モンテッソーリは、イタールとセガンの治療教育についての研究と自分自身の障害児との関わりを基に、障害児や社会的不適応を示す子供を含むあらゆる子供を対象とした教育を目指すことになる。

2. イタールとセガンの知的障害児教育

 イタールやセガンの仕事は精神病者と知的障害児の歴史の中でどのように位置づくのであろうか。
 フーコーの『精神疾患と心理学』(神谷美恵子訳)によると、精神病者や知的障害者の歴史は17世紀半ばまでの比較的自由な状態での生活から、17世紀半ばにおける大収容施設への隔離収容と強制労働の時代、さらには18世紀末の新たな社会的監視体制強化の時代へと移り変わったとされている。そしてこの最後の動きを進めたのが精神医学の祖として知られるパリのヴィセートル精神病院首席医師ピネルであった。フーコーは彼を1793年に「鎖に繋がれた人たちを解放した」が、むしろ「道徳的な鎖」を張り巡らすことで、「収容施設を一種のの恒久的審判所のようなもの」に変えたと位置づけている。
 このピネルに対して野生児の教育をめぐって異論を唱えたのがイタールであった。フランスの聾学校医師であったイタールは、1799年にコーヌの森で見つかったいわゆる「アヴェロンの野生児」を対象に教育を試みた。この野生児をめぐって、ピネルとイタールは対立した。ピネルが野生児も知的障害時も「いかなる社会の力も教育をも受け入れない」と主張したのに対して、イタールは野生児を仲間との関係や教育を奪われ、孤独な生活の中で育った子供と捉え、その教育可能性を見出そうとした。そして、①社会生活への適応 ②感受性の覚醒 ③観念領域の拡大 ④言語の使用 ⑤心理的作業 を中心とする計画を立てて教育を行った。
 しかし、この野生児は純粋の野生児というよりも知的障害児であった可能性が強く、イタールも後にその点を意識して計画を立て直し、感覚機能の成長、知的能力の開発、感情の発達の3段階からなる生理学的方法に基づく第2実験を試みた。イタールは、個々の感覚の働きが観念の発展のために強力に作用すると捉え、それを「医学的教育」として応用しようとした。彼は知的能力の発達には聴覚が最も貢献すると捉え、それだけ孤立させて訓練するために目隠しして音を識別させた。また触覚を用いて、すなわち、手で触ることで温度差や物の形を弁別させた。さらに金属の文字を視覚的に識別する方法で読み書き教育を行った。感覚を個別に用いながら、注意、比較、模倣、記憶などの行為によって知力を覚まし、関連の範囲を広げようとした。そして、イタールは、一定の知性を身につけた野生児に「自己的でない感情、もっと包容力のある感情」、「寛容な感情」をも確認した。(J.M.G. イタール『アヴェロンの野生児』古武 彌正訳)。このようなイタールの試みは知的障害児に対して生理学的方法で実際に教育した最初のものであったと言える。

 セガンはイタールから刺激を受け、彼は「哲学的目標と生理学的手段を持って知的障害児の教育をした最初の人」と位置づける評価したが、体系性を書くと言う点で批判した。そして、セガン自身は障害児治療教育の体系化を目指した。彼は1839年における知的障害児学校の開設、1841年のサルベトリエール院での実践、1842年末のヴィセトール院内での教育などを通して、子供の障害や能力に合わせた内容と方法を実証的な方法で探し出そうとし、知的障害児の訓練に生理学の原則を体系的に適用するか可能性を模索した。そして、モンテッソーリはイタールとセガンの思想と方法を基盤に障害児治療教育を進め多大な成果を上げた。
 このように見てくると、フーコーが位置づけた、ピネルまでの施療院での働きとイタールに始まりセガン、モンテッソーリへと発展する医学的教育あるいは治療教育の流れとでは、決定的に異なることがわかる。すなわち、この3人は教育の対象として認められていなかった知的障害児に教育可能性を見出し、実際に治療教育を試みた点で新しい流れを作った。
 また、イタール、セガン、モンテッソーリの試みは、西洋哲学の中でもエポックメイキングなものであった。西洋哲学には感覚と知性を結びつける思想が伝統として存在していたが、医師であったこの3人は、それを理念の域に留まらせず、知的障害児治療教育の具体的方法として生理学を用い、個々の感覚を個別に訓練する方法を工夫した。彼らは個々の子供の反応を確かめながら提示の仕方や働きかけ方を工夫し感覚を多様で具体的な形で刺激して興味を喚起し、感覚を錬磨させながら知力のアップを実際に図ろうとしたのである。

3.セガンからの発展

では、イタール、セガンの思想や方法を受け継いだモンテッソーリにはどのような独自性があったのであろうか。まず第1に、知的障害時の問題を医学の分野ではなく教育の分野の問題として捉えた点にある。モンテッソーリはこれについて『科学的教育学の方法』(1909)次のように述べている。
 「私は同とは異なり、知的障害は主にどう医学上の問題であるというより、むしろ主として教育学上の問題であると直感していた」。病気の治療において医学と教育学が提携すると言うと当時わずかだが動き出していた流れの中で、モンテッソーリは知的障害児の問題を医学よりむしろ教育学の問題として教育の中で行われるべきであると捉えた。イタール、セガンはいずれも医師であり、障害児に教育可能性を見出して治療教育を行ったが、医学か教育かという区別はそれほど重視せず両者の併存を志向していた。セガンの晩年の代表作『知的障害児 ー 生理学的方法による治療』の題名として「教育」ではなく「治療」という言葉を選んでいることなどを見ると、むしろ医学の領域での治療という傾向が強いことがうかがわれる。
 モンテッソーリも最初は医師として治療教育あるいは教育的治療として捉えていた。しかし、彼女はそこから発想の転換を行った。すなわち、知的障害時の問題を医学の問題としてよりもむしろ教育学の問題として捉え、生理学という医学的方法を治療ではなく教育の方法として用いて新しい境地を切り開くことになったのである。
 モンテッソーリの独自性は、第2に、子供の興味や関心に合わせてセガンとの教具と方法に少しずつ改良を加えて自らの教具体系を確立した点にある。
 セガンの試みた具体的方法には「筋肉に対する訓練」、「歩行力と平衡性」や「注意力集中」のための作業、「比較対照」、「繰り返し」、「手を用いる作業」(積み木、ボタンはめ、紐結び、はめ込み板、くぎ板、豆やピンつかみ、玉の糸通しなど)があり(E.セガン『知的障害児の教育』中野善達訳)、それらはモンテッソーリの教具や方法の原型となったが、彼女はさらに別の要素を加えて工夫した。例えば、セガンのはめ込み板は円形、三角形、四角形、多角形、立方体、円筒、ピラミッド型、円錐、十字型などをはめ込む形になっていたが、モンテッソーリは、その直径や高さや重さに変化を持たせた。
 モンテッソーリがイタールやセガンよりも力を入れたのは、読み書きの教育という面である。モンテッソーリはセガンの研究の中で読み書き教育は、「最も不十分に扱われている」と捉え、独自の方法を模索した。セガンもこの分野に全く関心がなかった訳ではなく、「線を描くのに必要な安定した力と正確さを与えた後、鉛筆を持たせる」ことや、また、「浮き彫りにしたアルファベット」によって触覚を用いて文字を確認する作業等を考案している(E.セガン『障害児の治療と教育』末川博監修、薬師川虹一訳)。モンテッソーリはそれらの方法を実際に子供に用いて反応を確認し、それぞれの教具を通して学ぶ内容を簡素かつ明確にするなどの工夫を加えて子供の興味を継続的に引き出せるようにして発展させた。
 モンテッソーリは知的障害児が教育によって知的能力が上がることを確認し、さらに知的障害児が公立小学校に入学するという成果を上げた。このため、障害児教育の方法を健常児に適用すれば「かれらの人格は驚くほど、発達し伸びていくであろうと徐々に確信」するようになり、ここからモンテッソーリの第3の独自性が生まれることになった。すなわち、生理学的方法を障害児だけではなく、健常児に修正しながら適用した点である。彼女は1907年、ローマのスラム街に開設された「子どもの家」でこれを実践に移し、さらに次のステップへと進むことをになった。

(3)人類学研究と「生命の援助」

 前章は、モンテッソーリの教育思想における知的障害児治療教育研究からの影響を見てきた。モンテッソーリは人類学や生物学からも影響を受けた。この学問からは彼女の教育思想における基本的概念が創出されたと考えられる。そこで、ここでは人類学からの影響について見ていきたい。

1. 人類学と観察する目

 モンテッソーリは、ローマ大学医学部在学中、人類学や民族学も学び、1899年秋から1908年まではローマの国立女子高等師範学校やローマ大学教育学部で衛生学や人類学の講師を務めた経験を持つ。ローマ大学での講義録は『教育学的人類学』(1910)として刊行され、その中で様々な民族の男女や子供の体格の特質が分析されているほか、教育の新しい方向を示唆している。
 モンテッソーリは同書の中でも、また、同時期に書かれた『科学的教育学』(1909)の中でも、著名な3人の人類学者の業績を評価している。それは、犯罪人類学のロンブローゾ(1835-1909)、生理学的人類学のデ・ジョバンニ(1838-1916)、教育学的人類学のセルジ(1840-1936)である。モンテッソーリは知的障害児治療教育のイタールやセガンの実践と思想から自分なりの発展を遂げたように、この3人の主張を学びながらそこから新たな思想の転換を図っている。
 ロンブローゾは犯罪人から動植物に至るまで多様で膨大な資料を収集し、犯罪者の身体的特徴に着目して生来的犯罪人説を提唱した人類学者である。その驚くべき発想の卓抜さで世界に衝撃を与えた。
 モンテッソーリはロンブローゾの理論はどのように捉えたのであろうか。彼女はロンブローゾやフランスのモレルの理論によって、知的障害児や犯罪者に対する市民の態度が嫌悪や拒絶から少なくとも関心や哀れみに変わったとして、その功績に一定の評価を与えた。一方で、モンテッソーリはロンブローゾを「生理学的決定論」と呼び、その「原理を文字どおりに解釈すればするほど、人格を変化させうる環境を持つ教育効果への信頼が減じてしまう」として影響力の大きさを警戒した。

このように評価と警戒を同時に示したモンテッソーリであったが、彼女の特徴は、遺伝的生理学的特質などの内的要因を重視するロンブローゾの理論の中にも、社会状況や文化や風土などの外的要因を探求しようとする視点があることを見いだした点にあった。
 モンテッソーリは生理学的人類学のデ・ジョバンニについても興味深い見方をとった。彼は医学的人体測定研究のデータをもとに、手足の長さや、胸幅の広さなどによって人間を厳密に分類しようとした医者であったが、モンテッソーリは彼の理論においても病気の内的要因だけではなく環境などの外的要因に対する視野も存在することを見出したのである。
 このようにモンテッソーリは、遺伝などの内的要因を重視した当時の人類学研究に影響を受けながら、その研究にも外的要因への視座があったことを見出した。そして自分自身は内的要因よりも外的要因である教育の可能性を模索していった。


 モンテッソーリは、「人類学の教育分野の研究」、すなわち、子供の学業に関する研究は「他のあらゆる分野と同様、必ず生物学分野と同時に社会学に立ち入る」必要があると考えていた。そして、子供の学業成績と家庭環境との関係などについて調べ、貧しい子供は育つ環境が劣悪なために学業が振るわないことを指摘した。つまり、内的要因よりも外的要因の影響の大きさを主張し、教育の重要性を示したのである。

 彼女は、「学校や教育学で要請されている改革は、社会生活に不適応を示すものを含む、発達過程にあるあらゆる子供の保護を導くものである」(『教育学的人類学』)と述べ、子供の階層格差の激しい時代にあって、社会環境に恵まれない多くの子供を含むあらゆる子供の保護と教育という視点に立った教育を目指していった。
 モンテッソーリはローマ大学の恩師セルジからも大きな影響を受けた。彼女は哲学が科学を統合すると捉えていた点でセルジと一線を隠す面を有していたが、セルジからは特に教育学を科学的な教育学にするという点で影響を受けた。そして、よく見てよく知るという人類学の方法を新しい教育学の基本として取り入れ、子供の個別研究と言う視点を得た。
 「教育学の分野において自然科学の方法は個別の対象の研究へと我々を導く」。「最も重要な事は、改革された教育学の最初のページは人類学的基礎の上に成り立っているということ。これはまさに、科学的という名のもとに行われる教育学の新しい発展である。それには教育される者を知ることが基本である」と述べている。
 従来の教育では子供は集団として捉えられ、子供一人ひとりの個別的事情に対する関心は低かったが、彼女は子供の個別的研究に基づいて教育学を発展させるという新しい方向を目指したのである。
 それは1907年に「子どもの家」が創立された当初は、個人調査票を用いた子供の身体に対する測定調査となって現れたが、その後、彼女の関心は子供の形態よりも行動の観察が中心になっていった。
 モンテッソーリによる子供観察の第1の特徴は、それまで適切であると考えられていた条件とは根本的に異なる条件を設定して、自由に自発的に活動する子供を観察するというものであった。その条件とは「子供の本性が個別的自発的に現れてくるような発達を可能にする自由」と「活動のための動機」が豊富な環境を提供することであった。
 観察の第2の特徴は、子供との受容的な関係を基盤とした中での観察という点である。
 モンテッソーリはこれについて次のように述べている。
 「人間を教育しようとする者にとって人間性に対する関心は、観察者と被観察者とを結ぶ、より親密な関係によって特徴づけられなければならない。そうした関係は、動物学や植物学の研究者と、研究対象である自然との間には存在しない」(『科学的教育学の方法』)。
このようにモンテッソーリは教育における観察は、他の自然科学とは異なり、観察者と被観察者との間の親密な関係、すなわち、教師と子供の親密な関係が基本であるとした。そして、親密な関係の中でこそ子供が真の姿を発現させていく可能性を示唆し、教師には「科学的精神」とともに「人間から人間に対する愛情」を求めた。教師と子供の親密性、そして子供への「愛」の中でこそ、子供が本当の姿を現すという捉え方がそこにはある。親密性や「愛」は、今日の言葉では<受容>と言う言葉で言い換えられるものであると考えられる。モンテッソーリは医学や人類学に影響を受け、実証的な観察を志向したが、それは単なる実証主義に還元できない、人間的関係を基盤とした中での観察という特殊性を持っていたのである。
 モンテッソーリはこのような条件と関係の下で落ち着き、秩序感があり、知的好奇心に満ちた子供たちを発見し、後にこの子供の変化を「正常化(normalizzazione)」と言う名称で呼ぶようになる。

しかし彼女は、もちろん好ましくないとされる子供の行動にも出会う。ものを壊す、イライラする、内気、不注意、依存などの行動である。その際、彼女はそれを「徹底した教育的処置によって正すのではなく」、子供を愛すること、子供の自然な欲求を理解し、受容することを基本とした。「子供は大人によって妨害されない安らぎ、自由、安全の場を与えられた時はじめて自己を明かす。子供は愛に満ちた人の前で、真の本性を打ち明かす。そして、愛する人だけが真にものを見ることができ、子供のデリケートな心の動きを見抜き、理解できるのである」と、後に述べている。
 人間の中には様々な性質が備わっており、それは対人関係のあり方によって多様な形となって現れてくる。つまり、管理的抑圧的な大人の態度と、子供の欲求を理解し、子供のために準備した環境で子供を援助し、欲求を充足させるという態度とでは、それに接した子供が現す性質はおのずから異なってくる。子供に自由と文化的刺激を提供しただけでなく、モンテッソーリが示したこのような親密性と理解と受容によって、子供は自然に好ましい特性を示し、子供が好ましい特性を示すようになればなるほど、その欲求は好ましいものと捉えられることになったと考えられる。

2. 生命に対する関心と生命の援助

 さて、『教育学的人類学』には、モンテッソーリ教育思想の土台となるもう一つの特徴的な視点の萌芽が見られる。それは人間の「生命」(vita)に対する関心と生命援助の思想である。
 「われわれは世紀を越えて人類を存続するものとしての子孫に対する責任に関して無知であり、分かっていない。彼らは、われわれ生物学的存在の究極的な目的である。一人一人は過去と未来の生命を結ぶ鎖のひとつに過ぎないのである。われわれは、周囲の環境や環境の中に表れる思想の進歩に夢中になっているので、これまでは、自分自身、すなわち、生命に関心を向けてこなかった」。
 医学と生物学、人類学に影響受けたモンテッソーリは、このように生物としての人間、人間という種としての生命、過去から未来へ永続する生命としての人間の存在を認識し、生物としての生命自体の素晴らしさを高く評価した。
 そして、「生命の発展」のためには、「人間間の協力や社会的組織」や「生命の防御に関する不安」からの解放が必要であると訴えた。さらに、教育の普及と、労働条件と社会条件の改良、そして平和の中において発展が可能となると指摘した。
 また、『教育学的人類学』でこのように考察された生命は、『科学的教育学の方法』では「生命の援助」という思想となって次のように示されている。
 「生物学的観点からすれば、幼児教育における自由という考え方は、その人格の最もふさわしい発達に適する条件として理解されなければならない。それは精神的側面からと同様に生理学的側面の発達であり、これは意識の自由な発達を含む。教育者は、生命を深く崇拝することによって、子供の生命の発達を人間的関心で観察し、尊重しなければならない。さて、子供の生命は抽象的観念ではない。それは個々の子供の生命である。そこには唯一の真の生物的表出、すなわち、生きている個人がある。一人一人観察される個々の子供に教育は向けられねばならない。すなわち、子供の生命の正常な展開に対する生きた援助である。子供は、成長する身体と発達する精神である。この生理的心理的な存在は、永遠の根源を持つ。すなわち、生命である。われわれはその神秘的な可能性を傷つけたり、押しつぶしたりするのではなく、その継続的な表出をまたなければならない」。「人間、特に、文明人の場合、人間の生命を深く知ることの必要は言うまでもなく、その保護と助成が必要なのである」。
 ここでは、生命の尊重、子供を一人一人個別的に研究することの重要性、子供の人格の適切な発達のための自由な重視、そして生命に対する適切な援助が不可欠であると主張されている。生命力が外側からの力によって妨げられることのないよう、生命力の援助としての教育概念が示されている。
 さらにモンテッソーリは「人類のあらゆる勝利あらゆる進歩は内的な力に立脚する」、「世界を進歩させるのは生命の内的で壮大な力」であるとして、人間の内的な生命の力の中に、世界を変える原動力を見出し、それをもとに人間や文化の進歩を図っていこうとする基本姿勢を確立した。
 ところで、この人間の「生命」は『科学的教育学の方法』において、「知的生命」(vitaintellettuale)という新たな価値が付加された概念としても登場している。「知的生命」とは子供の内面にある知的な性質を示す概念であり、活力ある「生命」に知性の概念を結びつけるというモンテッソーリ独自の展開がある。これによって彼女の教育思想が目指す方向性が明確になり、これを土台としてモンテッソーリの知的教育が進むことになった。

 モンテッソーリは、さらに、人類学から影響を受けながら人類学のものの見方を刷新するような研究を行っている。すなわち、従来の人類学とは異なる女性像を提起している。その見方の転換には当時のフェミニズム思想からの影響もあった。次章ではこの点について考えてみたい。

(4)フェミニズム思想と新しい能力観

幼児教育の分野で広く知られているモンテッソーリも、フェミニズム思想について唱えていた事はあまり知られていない。19世紀後半から20世紀前半は、今日の生活にも深く関わるような多様な学問や思想が花開いた時期であり、フェミニズム思想もこの時期に発展した。これまで特に、医学、生理学、人類学からの影響を見てきたが、本章では、フェミニズム思想との関連でモンテッソーリの教育思想の形成について見ていきたい。

1. 国際女性会議でのモンテッソーリ

女性の高等教育への進学に様々な壁がまだ存在していたこの時期、モンテッソーリは医学部に入学するために女性であるが故の様々な困難を経験した。しかし、同じように困難の末、学士となった他の女性たちとは異なり、彼女は卒業すると様々な国際会議で演説をするか機会に恵まれるなど、世間の注目を浴びて活躍することになる。演説のテーマは児童労働の問題や障害児教育の問題のほか、女性問題に関するものも多く、子供や女性にとって新しい状況を作り出そうとする熱意に溢れた建設的で具体的な提案がなされた。
 特に、1896年9月、ベルリンで開かれた国際女性会議では「同一労働同一賃金」を主張し、女性問題に関する時代に先駆ける発言を行っていることが特筆される。
 近代化が遅れて始まったイタリアでは、フェミニズム思想の広がりも他の先進ヨーロッパ諸国より遅れていたが、19世紀後半になると女性の工場労働者は急増し、1日に18時間という労働時間や男性の半額という給与など劣悪な労働環境が問題視され始めていた。そして、これを背景として、労働条件の改善を目的とした様々な組織が誕生し、女性の労働をめぐる議論も行われた。例えば、アンナ・マリア・モッツォーニにより、「女性権利擁護同盟」(188 1年)や「女性労働者連合」(1882年)が設立され、女工や女性電話交換手、女性教師らの低賃金や長時間労働、あるいは女性に対する抑圧的状況の改善が目指された。


また、1890年代末には、物をあんな・クリストフによる母性保護をめぐる論争がアバンティー市場で取り上げられ、クリストフが女性労働者の深夜労働の禁止、3級の取得と産休中の給与保障など女性の「保護」を視聴したのに対して、もう雑煮が自由な競争により女性の労働を推進しようと主張した。また、1897年には、マリアにが同一労働同一賃金の原則を主張し、1900年には、LCD 8ブロンティーニが女性に対する保護と男女同一賃金を主張した。このように19世紀末になると、イタリアでも女性の地位の向上へ向けての動きが徐々に進展し、論争も深められていくのだが、その中でも、モンテッソーリによる同一労働同一賃金の主張はかなり早い時期でなされているのである。また、彼女は、189 9年6月にロンドンで開かれた女性会議での演説をまとめた論文で、労働の場における女性差別に対して次のように述べている。「女性労働者には正当な報酬が支払われていない。(中略)女性教師は子供約3分の2を担っているが、男性教師よりも低い位置に置かれている。昇進は女性に開かれておらず、学校教師の改善へ向けた改革は、女性教師のことを念頭に入れていないことが多い。女性は秘密を守ることができないと言う偏見があり、数ヶ月前わが国で起きたように、いくつかの国ではまだ女性の電話交換手は音のない家族が、家族のないパンかを選ぶことを強いられる。女性医師や女性の弁護士は、生存競争を生き抜いていくのに社会の偏見や法律自体に障害物があるとしている」(「女性問題とロンドン会議」。原則は現代は()。このように職場での女性差別の現実を取り上げ、制度やほーの中で組み込まれてしまって自覚されにくい性別的構造や差別的意識の問題も指摘している。さらに、モンテッソーリは女性を公的な場から遠ざけてきた社会の仕組みや女性が自ら物事を知り、考え、後行動し、経済力を持つことを妨げてきた社会規範、さらには夫に従属して自分を無にして生きることをしてきた家族のあり方の問題などにも触れた。そして、「女性が受け身である時代は終わった」と述べ、 「正義とヒューマニティーの名のもとで」女性が政治的経済的権利を獲得できる社会の確立を訴えた。

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